| | 戻る | 〜2000年 | 2001年〜 | |
| 年 | 月 日 | |
| 1949年 | 11月26日 | 東京、毎日新館セント・ポールに於て「国際的視野に立つ職業野球」として太平洋野球連盟結成式を行う。 |
| 1950年 | 3月11日 | 毎日−西鉄、阪急−南海(西宮)で選手権試合開始。戸倉(毎日)がパ・リーグ第1号本塁打を放つ(投手木下)。 |
| 5月 5日 | 仙台宮城球場の球場開きに毎日−大映、毎日−南海のカードが組まれたが、午前8時頃多数のファンが殺到し、死者3名、負傷者26名を出す惨事が発生する。 | |
| 7月 5日 | 大映−毎日(後楽園)の第2試合が、パ・リーグ初のナイトゲームで行われる。パ・リーグのナイター初本塁打は戸倉(毎日)。 | |
| 12月 9日 | パ・リーグ選抜渡米チームの送別試合として、渡米チーム対新鋭選抜チーム及び東西対抗試合を行う。9日、10日(西宮)、11日(大阪)、16日、17日(後楽園)。 | |
| 1951年 | 1月30日 | 西日本パイレーツがセ・リーグを脱退し西鉄と合併。 |
| 2月11日 | パ・リーグ選抜チームがハワイ遠征に出発。(4月7日帰国) | |
| 3月 1日 | 「西鉄クリッパース」は「西鉄ライオンズ」に改称。 | |
| 3月18日 | 大阪、西宮両球場でパ・リーグ第1回トーナメントを行う。 | |
| 6月21日 | 全国プロフェッショナル野球協約発効。 | |
| 10月 7日 | 米大リーグ選抜チーム来日のため日本シリーズを10月10日開始としたことにより、連盟選手権試合を打ち切る。 | |
| 11月13日 | 岡山球場で行われた全パ対米大リーグ選抜の試合で、全パは日本のプロ野球チームとして米国プロ野球チームから初勝利。 | |
| 12月 1日 | 野球選手統一契約書発効。 | |
| 1952年 | 2月14日 | 常任理事会で今年度より変則的ながらフランチャイズ制を採用することを決める。 |
| 7月16日 | 西鉄−毎日(平和台)日没ノーゲームが宣告されようとした際、グラウンドに侵入した観衆によって審判員、選手が包囲、殴打される。(平和台事件) | |
| 1953年 | 1月30日 | 今年度勝率3割5分を割った球団は来年度選手権試合を休場することに決定。 |
| 8月23日 | 阪急−毎日(西宮)NHK TVプロ野球初中継。 | |
| 8月30日 | 阪急−南海(西宮)延長18回試合時間4時間36分で11時54分に終了し、パ・リーグで最も遅い終了時間。(セでは1992年9月11日阪神−ヤクルトの午前0時26分) | |
| 11月 6日 | 毎日がフィリピン遠征に出発。 | |
| 11月28日 | 実行委で両リーグ公式試合使用球は規格検査をコミッショナー事務局で管理することを決定。 | |
| 12月14日 | 来年度は勝率3割5分に達しない球団に対し500万円の制裁金を科すことを決定。 | |
| 12月25日 | 高橋龍太郎氏をオーナーとする新球団の加盟を承認。(1954年2月4日「高橋ユニオンズ」、本拠地川崎) | |
| 1954年 | 2月 1日 | 「東急フライヤーズ」は「東映フライヤーズ」に改称。 |
| 3月19日 | 後楽園球場に於て「パ・リーグ8球団制記念トーナメント」を行う。(22日まで) | |
| 11月17日 | 今シーズン勝率3割5分に達しなかった大映は制裁金500万円を科せられる。 | |
| 1955年 | 1月17日 | 「高橋ユニオンズ」は「トンボ・ユニオンズ」に改称。 |
| 2月23日 | イースタン・リーグ結成。5球団制。 | |
| 3月 1日 | ウエスタン・リーグ結成。7球団制。 | |
| 10月13日 | 閉幕。トンボは勝率3割5分を割り、制裁金500万円を科せられる。 | |
| 1956年 | 1月14日 | 「トンボ・ユニオンズ」は「高橋ユニオンズ」に改称。 |
| 2月 2日 | 南海がハワイ遠征に出発。(2月27日帰国) | |
| 11月28日 | 勝率3割5分に達しなかった球団への制裁金制度を廃止。 | |
| 1957年 | 1月12日 | スタルヒン(元トンボ)は自動車事故で逝去。(20日青山葬儀所でプロ野球葬) |
| 2月25日 | 大映、高橋両球団の合併決定。3月21日「大映ユニオンズ」となる。 | |
| 3月21日 | 大阪球場で「パ・リーグトーナメント大会」を行う。(24日まで) | |
| 4月 6日 | 大映−東映(後楽園)岸首相が始球式。 | |
| 11月24日 | 毎日−大映両球団の合併を承認。12月18日「大毎オリオンズ」となる。 | |
| 1958年 | 3月28日 | 西宮、大阪両球場で「6球団制記念トーナメント」を行う。 |
| 5月10日 | 東映−南海(駒沢)東映山本八郎は角田審判員を殴打、退場を命じられたが再度同審判員を殴打し、14日に無期出場停止が科せられる。(6月23日に解除) | |
| 1959年 | 1月12日 | 「近鉄パールス」は「近鉄バファロー」に改称。 |
| 2月 5日 | 総裁輪番制廃止。中沢不二雄氏が初代専任会長に就任。 | |
| 2月11日 | 実行委で、パ・リーグがサスペンデッドゲームの規則を採用することを承認。 | |
| 5月30日 | 東映−近鉄(駒沢)東映山本八郎は近鉄加藤を殴打し連盟会長より指示あるまで試合出場を停止される。(9月1日に解除) | |
| 1960年 | 1月15日 | 東映はハワイ遠征に出発。 |
| 3月 1日 | 西鉄大下の引退試合が平和台で行われる。 | |
| 7月17日 | 皇太子ご夫妻が大毎−南海(後楽園)をご観戦。 | |
| 1961年 | 4月27日 | 南海−近鉄(大阪)外野のモヤが深く7回から外審を増やし初の7人制審判で行う。 |
| 5月13日 | 社会人野球協会は、中日が日本生命の柳川選手を引き抜いたことから「今後プロ野球退団者は一切受け入れない」と発表。(1997年12月8日解除を発表) | |
| 5月20日 | 沖縄奥武山球場でリーグ初の国外公式試合を行う。西鉄−東映。 | |
| 6月 3日 | 阪急−近鉄(西宮)近鉄ブルームは観客から野次られ、スタンドで暴力を振るう。 | |
| 6月29日 | 近鉄は24日から6日間雨で試合が中止となる。 | |
| 1962年 | 2月 1日 | 「近鉄バファロー」は「近鉄バファローズ」に改称。 |
| 6月13日 | 沖縄遠征、阪急−大毎(13、14日)。 | |
| 11月10日 | 東映は国鉄と韓国で4試合行う。 | |
| 11月16日 | 実行委で来年から馬皮球使用を決める。 | |
| 1963年 | 3月 4日 | 第1回新人選手研修講座開講。(1968年まで) |
| 5月13日 | 4月7日の南海−近鉄(大阪)サスペンデッド・ゲーム続行試合の開始にあたって、投手交代をめぐり、試合開始が13分遅れる。 | |
| 7月22日 | オーナー理事合同会議で、公式戦において国歌演奏と国旗掲揚の実施を決議。 | |
| 8月 7日 | 東映−近鉄(神宮)近鉄ブルームは中根塁審に退場を命じられ、同審判の脅迫事件の原因となる。 | |
| 11月 2日 | 東映は大洋と韓国で非公式の7試合を行う。 | |
| 1964年 | 1月13日 | 南海村上雅則投手は野球留学生として、サンフランシスコ・ジャイアンツと契約。(9月1日に大リーグに昇格、その後来シーズンの契約を結んだことから、南海との間で問題が起こる) |
| 1月16日 | 「大毎オリオンズ」は「東京オリオンズ」に改称。 | |
| 1月25日 | 東京は単独チームとしては初の海外キャンプ(マウイ島)に出発。 | |
| 8月21日 | 理事会で西鉄の西代表より新人採用方式改革に関する具体案が出される。(新人プール採用方式) | |
| 1965年 | 3月 5日 | 若林忠志氏(元阪神、毎日、西鉄)は胃ガンのため逝去。(8日青山葬儀所でプロ野球葬) |
| 4月16日 | 審判にキャプテン制を設けることを決定。 | |
| 4月22日 | 合同会議で、選手採用制度を本年度から実施することを決定。 | |
| 4月27日 | 村上問題は、今年1年村上がアメリカでプレーすることで解決。 | |
| 6月 9日 | 中沢不二雄会長、有馬温泉宿舎で逝去。(12日青山葬儀所でプロ野球葬) | |
| 8月13日 | 松浦晋氏、会長に就任。 | |
| 11月17日 | 13日に就任した南海蔭山新監督は急性副腎皮質機能不全のため逝去。鶴岡監督復帰。 | |
| 11月17日 | 第1回ドラフト会議が日生会館で開かれる。 | |
| 1966年 | 2月10日 | 西宮球場に電光スクリーンと雨天練習場完成。 |
| 3月 5日 | 日本教育テレビ(NET)と業務協定を結ぶ。 | |
| 6月 5日 | 阪急−東映(西宮)東映ラーカーは1回表に色つきバットを使用、久保山球審が初球ファウル後に気づき取りかえさせる。 | |
| 11月 1日 | 東映がブラジル遠征に出発。 | |
| 12月19日 | 審判員の技術向上をはかるため技術部を設けることを決定。 | |
| 1967年 | 6月 8日 | 阪急スペンサーは、南海戦(西京極)の試合前に記録席の中沢記録員に対し、前日における同選手のプレーに失策が記録されていることにつき説明を求め、その回答を聞くや、同記録員の記録カードを破り捨てる。(戒告と制裁金5万円) |
| 7月19日 | 東映−近鉄(後楽園)東映白は3対5の9回裏に、逆転サヨナラ3点本塁打を打ったと思われたが、前走者を追い越したため本塁打を取り消されて同点止まり。東映は延長10回5対6で敗れる。 | |
| 7月30日 | 東京−阪急(東京)阪急住友は2回裏、無補殺三重殺を記録。 | |
| 10月27日 | 東映は中日と帯同試合のため韓国へ出発。 | |
| 11月 3日 | 西鉄、東映は帯同試合のため沖縄へ。 | |
| 12月22日 | 実行委で審判管理委員会規定を可決。 | |
| 1968年 | 2月 3日 | 審判管理委員会は両リーグ交流審判員を決める。期間は1年間。(1970年まで交流する) |
| 4月26日 | 松浦晋会長は、東京三原橋付近で道路を横断中、車にはねられ重体。29日に逝去。(5月9日青山葬儀所でプロ野球葬) | |
| 7月 3日 | 西鉄−東京(小倉)東京ロペスはパ・リーグ通算1万本目の本塁打を打つ(投手池永)。 | |
| 7月21日 | 東京−近鉄(東京)近鉄荒川はバットで榎本をなぐってこん倒させる。(8月9日南千住署は暴行の疑いで荒川を書類送検) | |
| 8月14日 | 南海−阪急(大阪)阪急スペンサーは1回表、私服のまま次打者席に出る。(制裁金1万円) | |
| 10月11日 | 阪急と南海はともに1試合残して79勝50敗で並び史上初の首位決定試合の可能性があったが、阪急が東京に11回裏サヨナラ勝ち(矢野のサヨナラ本塁打、終了6時21分)、南海が近鉄に敗れた(終了6時29分)ため、阪急の優勝が決まる。 | |
| 11月 1日 | 岡野祐氏が会長に就任。 | |
| 1969年 | 1月18日 | 東京オリオンズと株式会社ロッテ製菓との間に業務提携が成立、名称も「ロッテ・オリオンズ」となる。 |
| 3月14日 | 西鉄宇佐美和雄投手は、午後9時すぎ西鉄の雨天練習場で練習中、チームメートの打球を左胸部に当て、同35分に死亡。 | |
| 4月 1日 | 南海野球株式会社を発展的解消し、株式会社南海ホークスを設立発足。 | |
| 5月18日 | 阪急−近鉄(西宮)近鉄ジムタイルは2回表に本塁打を打ったが、一塁の手前で左足肉離れを起こし、代走の伊勢がベースを一周する。 | |
| 10月 7日 | 西鉄は永易将之投手が暴力団と関係をもち、公式試合で敗退行為を行っていたため、シーズン終了後に解雇することを決める。 | |
| 11月28日 | コミッショナー委員会は西鉄の永易将之を永久失格にする。 | |
| 1970年 | 1月19日 | コミッショナー委員会は全球団に、ポストシーズンの自主トレーニングに監督・コーチがユニフォームを着用して参加することを禁止する通達を出す。 |
| 2月27日 | 阪急中谷準志コーチ胃かいようの手術後肝不全のため死去。 | |
| 5月23日 | 東映−近鉄(後楽園)東映白は露崎球審に激しく暴力を振るい退場を命じられる。(24日に制裁金と2試合出場停止の処分。25日露崎審判員は白を告訴。28日和解) | |
| 5月25日 | コミッショナー委員会は、西鉄の与田順欣、益田昭雄、池永正明の3選手を永久失格に、船田和英、村上公康を本年11月末日まで一切の野球活動を禁止、基満男を厳重戒告の裁決。 | |
| 7月30日 | コミッショナー委員会は、東映森安敏明を永久失格、田中調を厳重戒告処分とする。 | |
| 11月19日 | 第1回選抜会議が日生会館で開かれる。(1973年まで) | |
| 1971年 | 1月25日 | ロッテ製菓はオリオンズの球団経営肩代りを全面的に受入れ、球団会長に重光武雄氏、新オーナーに中村長芳氏の就任を発表。 |
| 3月25日 | 南海杉浦の引退試合が大阪球場で行われる。 | |
| 5月 3日 | ロッテ−東映(東京)10回二死後東映は5連続本塁打のプロ野球新記録。 | |
| 8月17日 | 東映大川博オーナー肝硬変で逝去。74才。 | |
| 1972年 | 1月16日 | ロッテ浜浦投手とサンフランシスコ・ジャイアンツのF・ジョンソン外野手の日米初のトレード成立。 |
| 4月14日 | 東映−阪急(後楽園)1回裏阪急梶本は露崎二塁審判に野球規則8月04(塁に走者がいないとき投手はボールを受けた後20秒以内に打者に投球しなければならない)を適用され、ボールを宣告される。 | |
| 9月26日 | 阪急−南海(西宮)阪急福本はシーズン105個目の盗塁に成功。当時の米大リーグ記録は、1962年モーリー・ウイルスの104個。 | |
| 10月27日 | 西鉄木本オーナーは、球団を中村長芳氏に譲渡すると発表。 | |
| 11月 9日 | 実行委で西鉄の株式移動および名称変更を承認。(太平洋クラブ・ライオンズ) | |
| 11月20日 | パ・リーグオーナー懇談会で来年度より2シーズン制実施を承認。 | |
| 1973年 | 2月 7日 | 実行委で東映が日拓に全株式を譲渡することを承認。(日拓ホーム・フライヤーズ) |
| 2月24日 | 近鉄は専用球場を日生から藤井寺に移すことを決める。(10月13日藤井寺球場のナイター設備建設工事をめぐる裁判で大阪地裁は条件付きで工事中止を命じる決定を下す) | |
| 5月26日 | 南海はスミスが22、25日の試合に無断欠場したことに対し、無期限の自宅謹慎処分にすると発表。(6月22日に解除) | |
| 6月 1日 | 太平洋−ロッテ(平和台)ファンが騒ぎ、ロッテナインは試合終了後1時間にわたり球場から出られず、機動隊が出動。 | |
| 9月28日 | コミッショナーが、来年度から牛皮ボール使用を決定。(1962年まで牛皮、1963年から1973年は馬皮、1974年から牛皮) | |
| 11月19日 | 緊急実行委で、日拓ホームが日本ハムヘ株式を譲渡することを承認。(日本ハム・ファイターズ) | |
| 12月21日 | 実行委でロッテが本拠地を暫定的に東京都から宮城県に移すことを承認。 | |
| 1974年 | 2月 8日 | 株式会社東京スタジアムが解散を決定。 |
| 2月19日 | 本年度より採用のセーブ10以上投手を対象とする「最多セーブ」表彰が決定。 | |
| 5月 9日 | コミッショナーは失跡した日本ハムのバール・スノーを無期限の失格選手に指名。 | |
| 5月23日 | 太平洋−ロッテ(平和台)試合終了後、ロッテ選手は群衆に取り囲まれ、1時間20分後、機動隊に守られ装甲車で球場を脱出。 | |
| 7月16日 | 今年度より優秀審判員を選定することを決める。 | |
| 7月21日 | 打者にイアフラップヘルメット着用を義務づける。 | |
| 9月29日 | 日本ハム−南海(後楽園)日本ハム高橋博士は全ポジションを守る。 | |
| 11月18日 | パ・リーグオーナー懇談会は来年度より2年間を試行期間として指名打者制採用を決める。 | |
| 1975年 | 3月26日 | 日本ハムはニューヨーク・ヤンキースと技術援助協定を締結したと発表。 |
| 10月23日 | 親善野球のため、ロッテと選抜チームが韓国に出発。 | |
| 1976年 | 1月27日 | 実行委で最優秀新人の資格が「5年以内で打者は60打席、投手は30イニング以内の者」に緩和される。 |
| 3月 1日 | 後楽園球場は日本初の全面人工芝となる。 | |
| 4月29日 | 日本ハム−近鉄(後楽園)日本ハム行沢は8回裏満塁で左翼席に打ち込んだが、前走者を追い越して単打(プロ初安打)となる。 | |
| 5月14日 | 照明設備のない球場での日没によるサスペンデッド・ゲーム採用を決定。 | |
| 10月12日 | 太平洋クラブ中村オーナーはチーム名を「クラウンライター・ライオンズ」に変更すると発表。(15日リーグ承認) | |
| 1977年 | 1月20日 | 審判員に退場を命じられた監督・コーチ・選手に制裁金を科すときは10万円以下とする。(1987年12月26日制裁金額制限を廃止) |
| 1月20日 | 審判員に腕番号をつけることを決める。 | |
| 1月20日 | 「最多セーブ」を廃し、セーブポイント(セーブ+救援勝利)による「最優秀救援投手賞」を設ける。 | |
| 5月 6日 | 理事会で、これまで禁止されていたテレビカメラの外野席設置を、バックスクリーン区域を除いて許可。 | |
| 8月18日 | 近鉄は13日からこの日まで6日間連続、雨で試合が中止となる。 | |
| 9月20日 | 日本ハム−近鉄(後楽園)タッグプレイをめぐり乱闘中、近鉄のブルペン捕手岩木が日本ハム加藤に暴力を振るい、退場処分。 | |
| 10月 4日 | 実行委でロッテが保護地域を神奈川県に移すことを認める。(本拠地球場は川崎球場) | |
| 1978年 | 2月11日 | クラウンライター江田孝コーチは島原キャンプ初日に脳こうそくのため死去。54才。 |
| 3月 7日 | 一般公募の詞による連盟歌「白いボールのファンタジー」を、理事会が認定。 | |
| 3月23日 | 西宮球場外野の人工芝敷設工事完成。 | |
| 7月20日 | 日本ハムは7月1日の南海戦(大阪)よりこの日の南海戦(神宮)で20連戦。 | |
| 8月10日 | 岡野祐会長辞任。 | |
| 10月 1日 | 工藤信一良氏が会長に就任。 | |
| 10月12日 | 緊急実行委およびオーナー会議でクラウンライターの経営権を西武に委譲し、保護地域を福岡県から埼玉県に移すことを承認。(西武ライオンズ) | |
| 1979年 | 1月13日 | ハーフスイングの際、球審は塁審のアドバイスを受けられることとなる。 |
| 2月 9日 | 西武がフロリダ・キャンプに出発。オープン戦を米国でのみ19試合行い、4月3日帰国。 | |
| 1980年 | 1月 1日 | パシフィック・ベースボール・リーグとなる。3月24日パシフィック野球連盟が正式名称となる。 |
| 4月 8日 | 近鉄−ロッテ(日生)ロッテ山内監督は近鉄の攻撃の際はコミッショナーの合格印を押印していないボールを使用していると抗議。 | |
| 6月 6日 | 日本ハム−阪急(後楽園)の試合前、阪急選手のティー・バッティングの打球がネットを破り観客に当たり重傷を負わす。(7日会長は観客席に向かっての打撃練習禁止の規則厳守を通達) | |
| 7月30日 | コミッショナーはバットの製造販売会社に、1981年からの含浸加工のバット(圧縮バット)を禁止する通達を出す。 | |
| 10月 1日 | 南海−西武(大阪)南海門田はパ・リーグ通算2万本目の本塁打を打つ(投手東尾)。 | |
| 10月 2日 | 南海−阪急(大阪)9回表二死一、三塁、金城の一塁けん制でランナーアウト。しかし阪急側からボークだとの抗議があり、55分間中断後ゲームセットが宣せられる。 | |
| 11月 7日 | ロッテは親善試合のため韓国へ出発。 | |
| 12月 3日 | 西武板澤峰生選手は急性心不全のため死去。 | |
| 1981年 | 2月 4日 | 勝利打点の採用が決まる。(10月28日「最多勝利打点」の表彰が決定。1988年まで) |
| 2月21日 | ア・リーグ審判員D・デンキンガー、M・スプリングステッド両氏を招き、28日まで各キャンプ地で審判員の講習会を行う。 | |
| 4月 1日 | 〔エキサイティング・リーグ「パ」〕のキャンペーンをシーズン通して行うことを発表。 | |
| 4月19日 | 西武テリーは所沢近郊の子供たちを球場に招待する。(9月まで毎月1回行う) | |
| 7月 7日 | ロッテ三宅宗源は帰化が認められ、外国人選手枠からのぞかれる。 | |
| 7月23日 | 工藤信一良会長は脊髄腫瘍のため逝去。75歳。(8月6日青山葬儀所でプロ野球葬) | |
| 7月23日 | ロッテ−近鉄(金沢)ロッテ倉持投手が右手中指にテープを巻いた状態で投球練習をしていると近鉄から指摘があり、球審が除去を命じる。しかし次の回再び確認の申し出があり調べたところ、テープを巻いているのが発見された。審判団協議中にロッテは投手を梅沢に代える。(倉持に厳重戒告と制裁金10万円、山内監督と五十嵐球審に厳重戒告) | |
| 7月31日 | 南海−西武(大阪)南海門田が月間16本目の本塁打を打ち、プロ野球新記録。 | |
| 9月10日 | 福島慎太郎氏が会長代行に就任。 | |
| 11月17日 | パ・リーグ選手会が福島会長代行に1シーズン制復活の要望書を提出。 | |
| 1982年 | 2月 5日 | 今年度より指名打者の"偵察要員"が禁止される。(先発投手が代わらない限り一度は打撃を完了しなければならない) |
| 7月30日 | 福島会長代行は、審判員に危険球に関する通達を出す。 | |
| 8月12日 | 近鉄−阪急(日生)阪急は先発指名打者の偵察要員に投手の山沖を記入する。 | |
| 11月24日 | パ・リーグオーナー懇談会で来年度は1シーズン制の日程を採用し、プレイオフを加える試合方式にすることを決める。 | |
| 1983年 | 1月 7日 | ロッテは高橋博士選手を自由契約選手指名申請し、連盟会長経由でコミッショナー事務局より公示される。高橋選手はこれを不当とし、1月26日連盟会長に提訴。 |
| 2月16日 | 「ロッテ球団と高橋氏は参稼報酬年額1,137万5千円で速やかに1983年度の選手契約を締結するものとする」主旨の連盟会長裁定が下される。3月18日、連盟は高橋氏をロッテの支配下選手として契約承認番号登録公示。26日、高橋選手は任意引退を申し出、連盟はこれを公示。 | |
| 4月 7日 | 福島会長代行が会長に就任。 | |
| 6月 3日 | 西武−阪急(西武)阪急福本は通算939個目の盗塁に成功。当時の米大リーグ記録はルー・ブロックの938個。 | |
| 12月26日 | コミッショナー裁定により、日本シリーズでの指名打者規則が、1985年から隔年で使用されることになる。オールスター・ゲームについては規則通りとする。 | |
| 1984年 | 4月11日 | 日本ハム−西武(後楽園)日本ハム大宮の折れたバットが西武黒田捕手の頭に当たる。これをきっかけにコミッショナーが5月から3か月間、折損バットの調査を行う。 |
| 5月25日 | コミッショナーが実行委で乱数表禁止の提案をする。(6月8日より実施) | |
| 7月19日 | 西武−阪急(西武)1対1の同点から7回表簑田は勝ち越しの本塁打を打ったが、この回途中で降雨コールド・ゲームになったため本塁打は取り消される。(6回1対1のタイ・ゲーム) | |
| 1985年 | 1月 4日 | 南海久保寺雄二選手が急性心不全のため死去。 |
| 7月31日 | 近鉄バファローズは7月15日に引退した鈴木啓示投手の1番を永久欠番にすると発表。 | |
| 11月14日 | 理事会で1983年度から実施しているプレイオフ制度の廃止を決める。 | |
| 1986年 | 1月 9日 | 「勝率第一位投手」の表彰資格を、規定投球回数から13勝(チーム試合数の10分の1)以上に変更する。 |
| 6月13日 | 西武−近鉄(西武)近鉄デービスは東尾の投球を右ヒジに受け、東尾に暴力を振るい退場処分。(14日〜23日まで10日間の出場停止と10万円の制裁金を科せられる) | |
| 1987年 | 2月 6日 | ダークブラウンの着色バットの使用を認める。 |
| 4月 2日 | 福島慎太郎会長は大腸がんのため逝去。80歳。(22日青山葬儀所で合同葬) | |
| 5月21日 | 堀 新助氏が会長に就任。 | |
| 7月 6日 | 実行委で、ラバーフェンスのない球場は公式戦に使用しないことを決定。 | |
| 10月20日 | 西武−ロッテ(西武)西武は指名打者を起用せず。 | |
| 12月28日 | 平和台球場の外野席から、飛鳥・平安時代の外交施設の鴻臚館の遺構が発掘される。 | |
| 1988年 | 2月 6日 | マウンドの高さを10インチ(25月4センチ)に統一する。 |
| 2月15日 | 元パ・リーグ会長岡野祐氏急性心不全のため逝去。78歳。 | |
| 3月17日 | 日本初のドーム球場「東京ドーム」完工。 | |
| 4月23日 | 南海ホークスオーナー川勝傅氏脳こうそくのため逝去。86歳。(5月23日吉村茂夫氏オーナーに就任) | |
| 6月 7日 | 近鉄デービスが大麻取締法違反(大麻所持)の現行犯で逮捕される。27日野球協約の「不適格選手」にあたるとして解雇。 | |
| 6月17日 | 南海スコアラー西村省一郎氏心筋こうそくのため逝去。47歳。 | |
| 10月 1日 | 実行委ならびにオーナー会議で選手権試合終了後、株式会社南海ホークスの参加資格を株式会社ダイエーに譲渡し、保護地域を福岡県に変更することが承認される。(11月1日発足、福岡ダイエーホークス) | |
| 10月21日 | 実行委員会で株式会社阪急ブレーブスの参加資格をオリエント・リース株式会社に譲渡することを承認。保護地域は兵庫県。(11月4日発足、オリックス・ブレーブス) | |
| 12月27日 | 1989年より表彰項目に「最多三振奪取」を加えることを決定。 | |
| 1989年 | 10月 5日 | 近鉄バファローズオーナー佐伯勇氏肝不全のため逝去。86歳。(11月8日上山善紀氏オーナーに就任) |
| 1990年 | 2月11日 | パ・リーグ審判部、労働組合結成。 |
| 2月20日 | 捕手の防護用ヘルメット着用を義務づける。 | |
| 6月 6日 | 日本ハム−近鉄(東京ドーム)近鉄ブライアントの打球は二塁後方の天井にあるスピーカーに当り東京ドーム初の認定本塁打となる。 | |
| 6月23日 | 西武−ロッテ(西武)ロッテ金田監督は高木球審のボークの宣告を不満として暴力を振るい退場処分。(6月24日から7月23日まで30日間の出場停止と制裁金100万円を科せられる) | |
| 11月 1日 | 「オリックス・ブレーブス」は「オリックス・ブルーウェーブ」に改称。 | |
| 1991年 | 1月16日 | 湾岸戦争勃発で、コミッショナーが海外キャンプの再検討を要望。西武がマウイでのキャンプを中止。ダイエー(カウアイ)、近鉄(サイパン)は予定どおり行う。 |
| 1月22日 | 原野和夫氏が会長に就任。 | |
| 5月29日 | 近鉄−オリックス(日生)11回表オリックス・シュルジー投手は、1975年指名打者制採用後では初めての投手本塁打を放つ。 | |
| 9月 4日 | 実行委はロッテ・オリオンズが保護地域を1992年度より千葉県に変更することを承認。 | |
| 11月21日 | 「ロッテ・オリオンズ」は「千葉ロッテマリーンズ」に改称。 | |
| 12月 4日 | 千葉ロッテ荘勝雄は、帰化が認められ外国人選手枠からのぞかれる。 | |
| 1992年 | 2月13日 | スピードアップのため、野球規則8月04の20秒ルールを15秒ルールとして導入。 |
| 4月21日 | 近鉄、日本ハム、福岡ダイエー、千葉ロッテ4球団が7勝5敗で首位に並ぶ。(10試合以上消化で4球団首位は両リーグ初) | |
| 5月15日 | 福岡ダイエー−近鉄(平和台)8回一死一塁、近鉄清川は投手から一塁へ回り、二死後再び投手へ。指名打者制採用以後、投手から守備に回るのは初めて。 | |
| 6月 6日 | 西武−福岡ダイエー(西武)福岡ダイエー広永は代打でパ・リーグ通算3万本目の本塁打を打つ(投手潮崎)。 | |
| 1993年 | 4月 2日 | 福岡ドーム竣工記念、パ・リーグトーナメントを行う(4日まで)。優勝は日本ハム。常陸宮ご夫妻がご観戦。 |
| 4月10日 | 三笠宮殿下が開幕戦オリックス−千葉ロッテ(神戸)をご観戦。 | |
| 8月 1日 | 記録課長の帖地益雄氏がウエスタン・リーグ阪神−近鉄(高砂)の試合中に急性心不全で死去。 | |
| 8月 9日 | パ・リーグ初の「球団社長会議」開催。 | |
| 11月 2日 | フリーエージェント(FA)制度発効。 | |
| 11月10日 | 千葉ロッテが中日と帯同し韓国で親善試合を行う(16日まで)。 | |
| 1994年 | 4月 1日 | 朝日ソーラーシリーズ'94「パ」を福岡ドームで行う(3日まで)。 |
| 8月 7日 | 上位4球団が0月5ゲーム差で争う。西武(49勝39敗)福岡ダイエー(50勝40敗1分)オリックス(48勝39敗1分)近鉄(49勝40敗1分) | |
| 8月31日 | 7月29日から8月31日まで78試合中止試合なし。 | |
| 9月14日 | 日本ハム−オリックス(東京ドーム)オリックス・イチローはシーズン192本目の安打を打ち、プロ野球新記録。 | |
| 9月20日 | オリックス−千葉ロッテ(神戸)オリックス・イチローがプロ野球史上初のシーズン200安打を達成する。 | |
| 10月 6日 | 今シーズンから「最多安打賞」の新設を決定。 | |
| 1995年 | 2月12日 | 公式戦の審判員6人制(1964年から全試合)を1996年より4人制に切り替えることを発表。 |
| 2月16日 | 西武スコアラー植上健治氏はマウイキャンプ中に急性心不全のため死去。39才。 | |
| 4月 1日 | オリックス−千葉ロッテ(神戸)オリックス佐藤が2リーグ制以降の最年長開幕投手(40歳6ヶ月)となる。 | |
| 5月 9日 | オリックス−西武(富山)8回裏二死から西武の指名打者デストラーデが登板。指名打者が投手に回るのは初めて。 | |
| 7月22日 | オリックスにマジック43が点灯。7月中のマジック点灯は1965年の南海(7月6日)以来30年ぶり。 | |
| 9月17日 | 日本ハム−ダイエー(東京ドーム)日本ハム・デューシーは坊西への暴力行為で16日に続く退場処分。2日連続はプロ野球史上初。 | |
| 11月21日 | 審判員4人制に備え、ジム・エバンスら大リーグ審判5人を招き日米アンパイア・アカデミーを開催。(24日まで、千葉マリン) | |
| 1996年 | 2月 5日 | オリックス野村貴仁投手がパ・リーグ初の「調停」を申請。原野連盟会長ら調停委員会は3月1日、オリックスの提示する参稼報酬額3900万円を妥当な金額と認定。野村投手の主張する6500万円を退けた。 |
| 3月 2日 〜10日 |
「第1回日米審判交流プログラム」が実施され、村越、東両審判員が、米国フロリダ州で行われた大リーグオープン戦にパ・リーグで初めて出場。(8試合) | |
| 3月16日 〜24日 |
審判交流として、米大リーグ審判4人が来日してオープン戦に出場。(14試合) | |
| 8月 1日 | 中継ぎ投手の公式表彰として、「最多ホールド投手賞」を新設する。 | |
| 9月23日 | オリックス−日本ハム(神戸)オリックスが、イチローの二塁打でサヨナラ勝ちし、優勝決定。 | |
| 9月30日 | 吉國コミッショナーは、「97、98年の2シーズン、27回戦総当たりの計135試合に試合数を増加する」との裁定を下す。 | |
| 1997年 | 1月13日 | 千葉ロッテが大リーグのサンディエゴ・パドレスと業務提携に調印。 |
| 1月20日 | オリックスが韓国プロ野球の現代ユニコーンズと業務提携に調印。 | |
| 4月30日 | 6球団が1ゲーム差以内に接近(パ・リーグ初)。@千葉ロッテ・オリックス、B福岡ダイエー・近鉄(0月5)、D日本ハム・西武(1月0) | |
| 7月10日 | 近鉄−西武(大阪ドーム)西武・東尾監督は試合終了直後に丹波二塁審判に暴力を振るい退場処分。(7月11日から直近3試合の出場停止と罰金10万円を科せられる) | |
| 8月24日 | 近鉄−千葉ロッテ(大阪ドーム)近鉄は延長12回の末、リーグ史上初の10点差逆転勝利(11対10)を収める。 | |
| 8月29日 | 西武が大リーグのタンパベイ・デビルレイズと業務提携に調印。 | |
| 8月31日 | 8月度のリーグ観客数が2,169,000人となり、1カ月の入場者数最高を記録する。 | |
| 10月 3日 | 西武−福岡ダイエー(西武)西武が、鈴木健の本塁打でサヨナラ勝ちし、優勝決定。 | |
| 11月 1日 | オリックスが中日と帯同し韓国で親善試合を行う(2日まで)。 | |
| 1998年 | 2月 9日 | 前年告発された脱税事件に関与した選手(起訴10人、不起訴9人)に、コミッショナー制裁(出場停止、制裁金)が科される。 |
| 5月15日 | オリックス−福岡ダイエー(神戸)打順表に4番指名打者で記載されたオリックス・ニールが試合開始直前に腹痛を訴えたため、仰木監督が指名打者変更を申し出る。野球規則により認められず1回裏打席に立ったニールは先制2点本塁打を打つ。 | |
| 6月16日 〜27日 |
近鉄−千葉ロッテ(同一カード)で試合時間が5試合連続で4時間を超える。 | |
| 8月28日 | リーグ創設通算2万試合(プレーオフ32試合を除く)に達する。 | |
| 9月23,24日 | 上位4球団(西武・日本ハム・福岡ダイエー・近鉄)が1ゲーム差以内となる。9月以降では初めて。 | |
| 11月14日 | 西武は台湾に遠征し3試合を行う。(17日まで) | |
| 12月 2日 | 「福岡ダイエーのサイン盗み疑惑」が一部で報じられる。21日、第三者による調査機関「パ・リーグ特別調査委員会」発足。 | |
| 1999年 | 1月18日 | 福岡ダイエーのサイン盗み疑惑に関し、パ・リーグ特別調査委員会は「間違いなく行われていたとの確証は得られなかったものの、疑惑を完全に払拭することはできない」とする最終調査報告を発表。(村上球団社長に戒告と6ケ月間球団社長職務停止、岸谷代表に1ヶ月間代表職務停止が科せられる) |
| 2月 1日 | アマチュア選手が初めてプロ野球各球団のキャンプに参加。海外キャンプの近鉄、ヤクルトを除く10球団のキャンプに、4人ずつ参加。 | |
| 2月13日 | 監督会議の申し合わせで、野球規則8.04の20秒ルールを12秒ルールとして導入。 | |
| 4月 1日 | 「近鉄バファローズ」は「大阪近鉄バファローズ」に改称。 | |
| 9月 3日 | 大阪近鉄は8月28日日本ハム戦からこの日までプロ野球ワーストの5試合連続2ケタ失点を記録。 | |
| 9月11日 〜17日 |
韓国ソウルで行われたシドニー五輪アジア予選にプロ選手8人が参加。パ・リーグからは西武松坂、日本ハム井出、千葉ロッテ初芝、大阪近鉄小池、オリックス川越、福岡ダイエー松中の6人が出場。史上初のプロ・アマ合同の日本代表チームは16日五輪出場権を獲得。17日決勝では韓国に敗れ準優勝。 | |
| 11月18 | オリックスは台湾で親善試合3試合を行う。(22日まで) | |
| 2000年 | 3月 3日 | オリックスは、ファームチームの名称を「サーパス神戸」とすることを発表。穴吹工務店とのスポンサー契約によるもので、3月31日のウエスタン・リーグ開幕から変更。 |
| 7月 2日 | オリックス対千葉ロッテ(函館)千葉ロッテ・小林(雅)が史上初の打者0人で勝利投手となる(8回裏二死、一塁で登板、2球目暴投で一塁走者イチローが一挙三進もアウト、9回表千葉ロッテ逆転)。 | |
| 7月22日 | オーナー会議で2001年の公式戦を140試合制で行なうと決定(7月17実行委員会で合意)。 | |
| 8月29日 | 西武−オリックス(西武ドーム)はリーグ史上最長の5時間32分(延長12回9対9の引分け)。 | |
| 8月31日 | 131試合連続試合中止試合なし(6月29日〜8月30日・試合実施日52日)。 | |
| 9月17日 〜27日 |
シドニー五輪にプロ選手8人が参加。パ・リーグからは西武松坂、日本ハム田中、千葉ロッテ黒木、大阪近鉄中村、オリックス田口、福岡ダイエー松中の6人が出場。日本代表チームは予選を4勝3敗で通過も、準決勝(対キューバ)、3位決定戦(対韓国)に敗れ4位に終わる。 | |
| 10月13日 | 福岡ダイエー藤井将雄選手は肺がんのため死去。 | |
| 12月20日 | オリックス・イチローは、日本人初のポスティングでシアトルマリナーズへ(オリックスはイチローの保留権を放棄)。 |